2015年5月2日土曜日

「弔い」をReDesignする。(その1:「弔う」とは)

兄・辻井隆昭が亡くなって1年2ヶ月が経とうとしている。

死亡が急逝だったので、「戒名不用、告別式不用」との遺言を守るのが精一杯だった。
遺言を守ったことで、いろいろ気付かせてくれた。
申し訳ないが、お坊さんは必須では無いと感じた。それより急な知らせを聞いて駆けつけていただいた皆さんと遺体の前で、自由に話す時間があることの豊かさはお経に代え難い。親戚の方々とも法事というカタチに囚われないで話せるのは貴重だ。

世の中、葬儀をしない直葬というスタイルが多くなってきたようだ。
でも、それだけでは残念な気がする。
「弔い」(とむらい)として、故人の思いを繋ぐコトをカタチや場所、時期を問わず行いたい。
葬儀というスタイルはある種便利だが、置き去りにした部分や、本来の役割を果たせていない部分があるような気がする。
もう一度「弔い」を見直す時期にきている。

検索していて、次のブログ記事を見つけた。
「弔い」論

記事の中で川村邦光氏の論を引用しているのを、私も引用しよう。

死を悲しみ悼む(いたむ)営みである、
弔いは死者に対する生者の関わりが続く限り存続する長いプロセスである。

そう、弔いは弔う人が居続ける限り続く。
ただ、悲しんだり、悼んだり(嘆いたり)するだけのプロセスだろうか。

寿(ことほ)ぐプロセスであっても良いと思う。
寿ぐ=言葉にして幸福を招き入れる、との意味です。

兄の急逝で、驚いたり、悲しんだり、怒ったり、理由を探したりする人々が一杯いた。私は理由を探すのが主な反応だった(なぜ、病院で亡くなったのか、お医者さんは兄の死から何か学び取ったのか)。同時に、夥しいモノやコトの片付けを担うことにしたので、そこに気持ちが行っていた。

しかし、急逝であろうが「寿命」と受け取れば、事態は急展開する。
彼の人生が急逝で完了・完結したと思えば、理由探しよりも、彼が人生を賭して伝えたかったことに目がゆく。それが寿ぐプロセスだと思う。

そう、寿命の意味を再確認しようとして出会った次の歌を聴いてください。私の文章より雄弁だと思う。

高野健一 / ことほぎ~君への遺言~



寿ぐプロセスとしての手作りの「弔い」を紹介してゆきます。








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